昭和48年9月10日 月例祭における御教話    



 勢をそろえて信心をするという事が言われます。例えば、大名行列が、こう、露払いがおって、それから、色々の受け持ち、または、その、役やくで持ち物も衣装も違うのですけれども。一つの行列というものは同じ。その行列の中にある。だから、一人が行き方を間違えたら、もうその行列が乱れる。そういう、私はあの、信心という、勢をそろえるという事は、そんな事だと思います。信心も手習いも同じ事と仰せられる。一段一段上がって行くと。まあ、はじめの間は、言うなら楷書。そして、叢書、行書と、ああ、行書、叢書というように、だんだん崩した字を書いて行く。それが、まあ、習字の稽古をする、一つの順序でございましょうけれども。信心は、こうしなければならないとか、信心はこうだと、もう決める事ではありません。もう、銘々が様々な信心をしても良いのです。
 ね、ただ、それがいつも同じであってはならないという事です。ね、例えば、お道の信心の中にも、今日、熊本のひろこせんが所から、あの、現金封筒で、毎月お供えをして下さいと言うて、お金を、まとまってお金を送って来るです。それを、そのどういうおかげを受けておるかというと、この人は、皆さんもここで、しばらく修行しておりましたから知っておりましょうけれども。その、御霊様がいろいろ指図をなさる。ね。それで、何代前の御霊様が、難儀をしておられるから、それを助ければいけない、といったような、それで人がとても助かる。最近、おかげで、まあ、こじんまりとした教会ですけれども、教会が、建立新しく出けたという訳です。ね。金光様の御信心を頂きよって、言うなら、その御霊様専門といったような先生もあるし、やはり、それで助かってもおるのです。
 かと言うと、〇〇教会、ここも大変にごひれいを頂いて人が沢山助かる。それは、もうほとんど病人さんが多い。それは、こうやって、その、手を病人さんに、いわゆる指圧ですか。ね、お参りをされると、先生が控えの方へお出でなさいと言われる。控えで帯を解いて、こうやって当たってもらう。ね。そすと、不思議にその病気が治るわけです。
 ね、だから、そういうのは金光様の御信心にはないという事はないのだ。それも、やはり金光様。なら、合楽の場合であっても同じこと。様々なタイプがあって、様々な信心をお互いさせて頂いておる。信心の、熱意もそれぞれに違う。だから、それが、違うの間違いという事ではないのですけれども。ね、それなりにです、私は行列だけには参加しとかなければならない。合楽という、いわば行列の中に、入ってなきゃおらなければいけない。その役は違う。ね。おる場は違う。けれども、それを乱すという事はいけないと言っても、それは、まあ乱しておりましてもです。ね。その行列に参画させて頂くという、それが、私は勢をそろえて信心をするということ。そこにはね、いわば不思議な働きが起こって来る。一人では、二人ではどうにも出けない問題、事柄がです。ね、一緒の内に、何とはなしに何時の間にかおかげを頂いている。合楽という一つの大行列の中に、参加させて頂いて。ね、それぞれの信心に応じての信心をさせて頂く。ね。ですから、信心も手習いも同じ事ですけれども、信心の場合はです、はじめの間は叢書、行書。何が何やらわからん。例えばあの、叢書などで書いてあるのは、もう私ども読めきれません。ね。まあ、行書になると、どうやら、はあ、これは何という字ぐらい分かる。だいたい正確に楷書で書いてあればです、もうだいたい読めれる。だいたいと言うか、まあ、ほとんど読めれる。 ね、ですから、誰が見ても合点が行く。誰が見ても分かる信心になって行くという事ですから、はじめの間は、お互いの信心が叢書であり、行書である。それは、これはしらじじゃないかという事は決してない。ね。それも、やはり本当な字だけれども、私どもには理解が出来ん、分からないというところがある。ね。先日、東京から毎月お芝居の本が送ってくる。見せて頂いておりましたら、(いせおんど)のお芝居が、の写真が載っておって、その(ひょう)が書いてあった。(いせおんど)皆さんご承知でしょうか。福岡みつぐという、あの、良い男が揚屋の女に、まあ、愛想ずかしをされて。そしてそこで、十人切りをするというお芝居なんです。ほれは、もういつも、この夏の、(時候)の時のですから、いつも夏芝居として、それが受けるわけです。真っ白い(しろがそれでおきて?)、上からあの、薄い、上野先生が着とりなさるような、ね、薄い(あのせみ?)というか。ああいう、あの、薄い下の白が(そろえても?)なかなか何とも言えない。まっ、夏の風俗です。その福岡みつぐが、花道から扇子を使うて出て来る。片一方の腕、こちらの左の腕をね、胸の辺りに軽くこう、握りこぶしを作って、そして、片一方ので扇子を仰ぎながら、花道をこう、格好よう出て来る訳なんです。それで、その、今の若い俳優の方達にあの、福岡みつぐがね、花道から出て来る時に左の手を、こぶしを軽くこう握って、あの、目の辺りに置いてあるのは、あれはどういう訳か知ってるかち。って聞いたら誰も知らんて。もう、昔からそういう一つの型というものがある、芝居には。だから、その何々という役者の、まあ、色々その名優の型がある。だから、その型で行って、動いておるだけの事だと。本当に今の若い俳優は、そのわからんなりに、ただ、こうやって左と右に上げながら花道を出て来とるだけだと。ほほお、私も読みながら、どういう訳だろうかと、こう思うて読みよった。そしたらね、こういう風にして、この片一方、右の手で、こう扇子を使うて入って来るっというのは、和服ですからね。ここの袖から風を入れる体を、その所作をして来るんだそうです。ね。その格好が、何とも言えない。それを実際に、それをね、知らないで形だけでやったるから、その、いけないんだという訳なんです。ね。お道の信心でも、やはりそうなんです。いわゆる、形だけは、ね、出けて来る。けれども、その内容が、その意味すらが分からなくなって来る。はあ、今日はお月次祭だ。今日はお参りをさせてもらわにゃならん。ね。朝参りだと、おかげを頂かせてもらう。何のために朝参りをしておるのか。何のためにお月次祭度に、こういう仰々しい一つの儀式をさせて頂いて、沢山のお供えをさせてもろうてお月次祭を奉仕させてもらうのか。また、それを皆がこうして一緒に拝むのか。皆さんはどうでしょうか。ね。何のためにお月次祭が、ね、月に四回あって。そして、皆さんこうやって参拝されておるのか。ね、言うなら、左手をここに、こう上げて扇子を使うて出ては来よるけん、格好、ああ、なるほど、まあ熱心なこっちゃある、お月次祭には必ずお参りになるという事でしょうけれどもです。その、意味も、内容もない。お参りにその内容がないお月次祭参拝であると、それは、格好は出けておるけれども、実際は、言うならば帰りに頂いて帰れるものがない。ね。皆さんご承知ですね。お月次祭はどういうお祭りかということ。ね、月に四回は、ここでは1日、10日、18日、23日と日を定められるお月次祭を。ね。お月次祭は、私はお礼のお祭りだと思うです。ね、まあ、日々お参りをさしてもらう、また、日々神様に様々なお願いをさせてもらう。段々おかげを頂いて、そのお礼の心が、止むに止まれん、その形がこのお月次祭に現れておらなければならない。ね。そこで、さあ、今晩はお月次祭ぞ、さあ、お参りするぞと。今日は仕事を三十分間、または一時間早く切り上げて、さあ、一緒にお参りをするぞと。家族が揃うて、ね、お祭りを拝ませてもろうて、心行くばかりにお礼を申させてもらう。もう、本当にお礼を申させて頂いておると、そのお礼を頂いて、お礼を申し上げなければならない事が広がってくる。お礼を申し上げても、お礼を申し上げても、尽きぬほどのお礼心というものが生まれて来る。その、お礼心に、帰りには船にも車にも詰めぬほどの御神徳を頂いて帰る事が出ける。そのおかげをです、また、次の月次祭には、もっとましなお礼心が進んでおらなければならない。ね。私は、もう本当にです、私は今日は、あの御神前で、皆さんに何を聞いてもらおうかと。今日は時間が大変長くかかった。お話をする時間も、だから無くなった。ね。けれどもね、先生が言われる事は、もういつも、磨けだ、改まれだと。ね、おかげをおかげと言わずに、信心を頂かにゃという事ばかりだという事を、皆さんがよう知っておられる。だから、今夜もやっぱりそういう御理解じゃろうと、思うとんなさるだろうと思うたら、もうそういう、お話は出けなくなってしまった、今夜は。ね。もう、皆さんが知っておられるのだから。ね。だから、まあ、知っておられる方もあろうけれども、その実際の実感というか、内容というものは、お粗末だなあ、こういうお礼心でお月次祭を拝ませて頂いてもという事に気付かせて頂いて。この次のお月次祭にはです、もっとましな。ね、お礼心を持って御参拝のおかげを頂き。そして、この月次祭という、このお広前へ一同が集まって、それぞれの心の丈のお礼を申させてもらう。一つの、それは同じ、例えばお礼を申し上げて、それぞれを違うとは違いましょうけれども、一つの大きな行列の中にあって、ね、叢書で書く人もあろう、楷書で書く人もあろう。または、行書で書く人もあろうけれども、お礼というところに、一つに絞って。この、お祭りが奉仕されれるようなおかげを頂いて行かなければです、次の、例えばおかげ。願った事を、おかげを受けるという事も有り難いけれども。願っておかげを頂かないと、やっぱおかげを頂ききらじゃったという事になる。ね。それよりもです、私どもが段々信心をわからせて頂いて、もう限りないおかげの中に実はあるのですから、限りないそのおかげを、お礼を申させて頂いておると、そのお礼の心というものが、どこまでもどこまでも広がって行く。もう、お礼一筋にお礼を申させて頂いておる人達が、いわゆるお広前一同に集まって、ね、神様にお礼を申させてもらう。それを、私がお取次ぎをさせて頂くというようなです、おかげを受けた時に。ね、それこそ、有り難い有り難いとお礼を言うておれば、またやりたいのが、人情でもありゃ、神情でもあるのです。ね。そこから、また、本当に願いもしていないのに、こういう勿体無いおかげを頂いてという事になって来る。もう、何と言うても、お道の信心はです、このお礼。それを、せめて、私どもは日々願い事が多いですけれども、せめてこのお月次祭の夜だけはです、もう心の底から皆で同じ願いを一つにして。様々な信心の段階は違いましょうけれどもです。ね、一つ、お礼を申させて頂く、いわばお祭り。または、そういう集いである、お礼の集いであるという、一つ自覚と。また、そういう信心をです、いよいよ頂いて頂きたいものでございます。さっきから、総会のお話があっておりました。これは、100円、何か会費を取るそうですけれども、それは、車代でしょ?お互い、その車をあの、まあ、ガソリンだけぐらいは、銘々で、ガソリン代だけ出さにゃというのが、100円という事になったらしいんです。だから、銘々、まあ、手弁当で。ね、一つ大きな大名行列に、合楽のという、まあ、大名行列に参画させて頂くつもりで。まあ、そげな馬鹿らしか事してから。そげん、遊びにどんといったような思いではなくてです。そこからです、ね、そこからでなからなければ、頂けない大きな力を現して行きたい。そういう願いを一つになっての、一つ総会でなかなければならん。もちろん、その大行列がね、言うならば10月16日の御大祭に繋がるという事になるのでございましょうけれどもです。どうぞ、一つ沢山、いわゆる総会ですから。もう、皆こぞって、その総会に参加させて頂きたいと思います。どうぞよろしくお願い致します。